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一話四節 触れてもいいですか?

last update تاريخ النشر: 2026-08-12 00:17:17

四節

紅茶を飲み終えても、悠はすぐには席を立たなかった。

いつの間にかレコードは終わっていて、針が盤面を離れたあとの店内には、窓を叩く雨の音と、カウンターの向こうで澪が使い終えたカップを片付ける小さな音だけが残されている。

陶器が触れ合い、水が細く流れ、それさえ途切れると、《月影珈琲館》の夜は驚くほど静かだった。

悠は自分の手の甲を見つめていた。

仕事の話でも、酒の席で笑うためのくだらない話でもなく、三年前に終わった恋について、こんなにも長く誰かと話したのは久しぶりだった。

好きだったことを、好きだったままでいいと言われただけなのに、胸の奥に残り続けていた空白へ、ほんの少しだけ温度が戻ったような気がしている。

澪がカウンターから出てきたのは、しばらくしてからだった。

向かい側ではなく、悠から少し斜めの位置へ腰を下ろす。

近い。

それでも、踏み込まれたような息苦しさはなかった。

黒い制服の袖が橙色の灯りを淡く返し、まとめていた長い黒髪の一部が肩から静かに流れている。

その横顔には窓硝子を伝う雨の光が映り込み、すぐそばにいるのに、どこか遠い夜の景色を見ているようでもあった。

「……疲れていますね。」

澪の声は問いかけというより、そこにあるものをそっと確かめるような響きだった。悠は反射的に否定しかけたが、すぐにやめた。今夜だけは、わざわざ取り繕う必要がないように思えた。

「……そう見えます?」

苦笑する悠を見ても、澪は笑わなかった。ただ穏やかな目を向けたまま、小さく頷く。

「少し。」

それだけの返事なのに、妙に逃げ道がなかった。悠は視線を落とし、自分でも説明できない居心地の悪さをごまかすように指を組んだ。

「格好悪いですね。」

なぜそんな言葉が出たのか、自分でもよく分からない。それでも澪は急いで否定せず、少しだけ首を傾げた。

「どうしてですか?」

悠は答えに詰まった。疲れていることも、三年前の相手をまだ忘れられないことも、一人でいることに慣れたつもりで、結局は酒で夜を短くしていることも、誰かに知られるのは格好悪いのだと、ずっとそう思っていた。

「……なんとなくです。」

結局、それ以上の言葉は出てこなかった。それでも澪は追及しなかった。雨が降り続き、壁の時計だけが静かに秒を刻んでいる。そのはずなのに、店の中だけは時間が少し遅く流れているようだった。

「悠さん。」

名前を呼ばれて顔を上げると、澪がこちらを見ていた。その眼差しには、哀れみも、無理に慰めようとする色もない。ただ目の前にいる悠を、そのまま見ている。それだけだった。

やがて澪の手がゆっくりと動いた。しかし、その指先は悠の手へ触れる寸前で止まる。

「……触れても、いいですか?」

その一言が、思いのほか深く胸へ残った。触れる前に尋ねる。それはきっと、当たり前のことなのかもしれない。それでも悠には、その短い確認がひどく優しく聞こえた。

少し迷ってから、悠は頷いた。

「……はい。」

指先が手の甲へ触れた。たったそれだけなのに、そこから伝わってきた温度に、悠は思わず息を止める。三年間、誰かと握手をしたことなら何度もあったし、酔った同僚に肩を叩かれたり、ふざけて抱きつかれたりしたこともある。

それでも今は、そのどれとも違った。自分が誰かに触れられているのだと、否応なく意識してしまう触れ方だった。

澪の指が、ゆっくり悠の手を包んだ。その瞬間、知らず肩へ力が入ったことに彼女は気づいたらしい。それ以上進まず、強く握ることもせず、悠が息を吐くまでただ静かに待っていた。

「大丈夫ですよ。急がなくていいですから。」

囁くほど小さな声だったのに、雨音の向こうから不思議なくらいはっきり届いた。悠はゆっくり息を吐き、張りつめていた肩を少しだけ落とす。

「……こういうの、久しぶりで。」

言葉にしてしまうと、ひどく頼りなく聞こえた。それでも澪は茶化さず、静かに耳を傾けている。

「三年くらい。」

悠が続けると、澪はただ小さく頷いた。笑われない。慰められもしない。ただ受け止められる。そのことが、かえって胸の奥へ響いた。

やがて澪の指が離れた。その温度がなくなった瞬間、悠はほんの少しだけ惜しいと思ってしまい、そのことに自分で驚いた。

顔を上げると、澪もこちらを見ていた。どちらが先だったのかは、後になっても思い出せそうになかった。ただ、二人の間に残っていたわずかな距離が、ゆっくりと消えていった。

澪の手が、今度は悠の頬へ触れる。長い黒髪がさらりと肩から落ち、その先が腕をかすめた。紅茶とは違う、微かな香りが近くなる。

「……嫌だったら、言ってくださいね。」

悠は返事の代わりに、もう一度頷いた。それを確かめてから、澪の顔が近づく。

最初の口づけは短かった。触れたと思った次の瞬間にはもう離れていて、悠が目を開くと、澪はすぐ近くからこちらを見つめていた。試しているのではない。先ほどと同じように、確かめているのだと分かった。

「……大丈夫です。」

今度は悠から言った。その言葉を聞いた澪の目元が、ごく僅かに緩む。

「はい。」

二度目は、先ほどより少し長かった。窓を叩く雨も、時計の秒針も、次第に遠ざかっていく。悠はどこへ手を置けばいいのか分からず迷った末、澪の腕へそっと触れた。それでも彼女は急がず、悠が慣れていく速度へ自分の呼吸を合わせるように、少しずつ距離をなくしていった。

頬に触れる指。肩へ落ちる髪。重なった手。すぐそばにある呼吸。

触れ合うたび、悠はひどく懐かしいものを思い出していた。誰かが近くにいるということ。自分とは違う呼吸が、すぐ耳元にあるということ。一人ではない体温が、自分へ移ってくるということ。それらは三年間、忘れたふりをしていたものだった。

いつの間にか、澪の腕が悠の背へ回っていた。悠もおそるおそるその身体を抱く。最初は力の加減すら分からなかったが、澪の手が背をゆっくり撫でるうちに、少しずつ強張りが解けていく。

「……力、入っていますね。」

耳元でそう言われ、悠は反射的に謝ろうとした。

「すみません。」

けれど澪は責めるでもなく、ほんの少し笑ったような息をこぼした。

「謝らなくていいですよ。ゆっくりでいいですから。」

その言葉に導かれるように、悠は目を閉じた。そこから先は、どこまでが雨の音で、どこからが互いの呼吸だったのか、だんだん分からなくなっていった。

服越しだった温度が、いつしかもっと近くなる。互いを隔てていたものが少しずつ減るたび、悠は妙に心細くなり、それと同じくらい安心した。澪はそのたびに悠を見た。急がず、試すこともなく、自分のために先へ進もうともせず、悠が躊躇えば待ち、息が詰まれば頬へ触れる。

「悠さん。」

名前を呼ばれるたび、自分がここにいていいのだと思えた。

再び唇が重なり、悠は目を閉じたまま澪の背へ腕を回した。腕の中の身体は温かく、どこか夢のように遠いのに、触れれば確かにそこにいる。雨に冷えていた悠の身体へ、その熱がゆっくりと移ってくる。

澪の指が悠の髪へ触れる。呼吸が近くで揺れ、彼女はもう一度、確かめるように悠を見た。

「……大丈夫ですか?」

何度目か分からない問いだった。それでも悠は、そのたびに聞かれることが嫌ではなかった。むしろ今度は、迷うことなく目を開き、近い距離にいる澪を見返した。

「……はい。」

その返事を聞いてから、澪は静かに悠へ身体を預けた。

その夜、二人のあいだに何があったのかを、悠は後になってもうまく言葉にはできなかった。覚えているのは、窓の向こうで絶えず降り続けていた雨の音と、頬へ触れた指の温度、耳元をかすめる呼吸、それから何度も確かめるように呼ばれた自分の名前だった。

長い夜の中で、悠はいつしか澪を抱いていた。澪もまた、その腕の中にいた。

それが彼女にとってどんな意味を持つのか、このときの悠には分からない。誰にでも同じように優しいのか、それとも今夜だけなのか、そんなことまで考える余裕もなかった。

ただ、温かかった。

すぐそばに誰かの息遣いがあり、自分の名前を呼ぶ声がある。それだけのことを、悠はずいぶん長いあいだ忘れていた。

やがて、ずっと遠くへ退いていた雨音が、少しずつ意識の中へ戻ってきた。悠はしばらく目を閉じたまま、その音を聞いていた。

「……澪。」

ほとんど囁くように名前を呼ぶと、すぐそばから柔らかな返事が返ってくる。

「はい。」

それだけでよかった。

肉体よりも先に、三年間誰にも触れさせなかった場所へ、ほんの少しだけ誰かが入ってきた。

その感覚だけが、雨の夜の底に、静かに残っていた。

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    四節  言葉の向こう側 それからしばらく、二人とも何も言えなかった。 先ほど澪が口にした「嫌じゃないんです」という言葉が、まだそのまま二人の間に残っているようだった。 悠は何か話した方がいいのだろうかと思ったが、適当な話題を探してしまえば、せっかく澪が見せてくれたものから逃げるような気がしてやめた。 澪もまた、いつものように自然な笑顔へ戻ろうとはしなかった。 少し俯いたまま、自分の指先を見つめている。 そんな彼女を眺めているうちに、悠は一ヶ月前とは違う感覚を覚えていた。 あの夜は、自分がどう思われているのかも、澪がどんな人なのかも考える余裕などなかった。 ただ差し出された優しさへと縋るように、その温もりを受け入れただけ。 けれど今は、目の前にいる澪が何を思っているのか、自分と一緒にいることを彼女自身はどう感じているのか、それを知りたいと思っていた。 やがて澪が顔を上げる。 交わった視線には、鮮やかな熱が滲んでいた。 ほんの少し前までなら、それだけで済んでいた。 しかし今はもう、互いの目を見ているだけで妙に落ち着かず、どちらも先に視線を外すのは惜しいような気がした。 やがて澪の手がゆっくりと動き、悠の手へ向かって伸びてくる。けれど、触れるほんの少し手前で、その指先は止まった。 「……触れても、いいですか?」 一ヶ月前にも聞いた言葉だった。 あの夜の悠なら、すぐに頷いていたと思う。 けれど今夜は、その伸ばされた手を見つめているうちに、別のことが気になった。 「澪さんは?」 問い返されるとは思っていなかったらしく、澪は目を瞬かせた。 「……わたし、ですか?」 その反応を見て、悠は少しだけ迷ったものの、それでも聞かずにはいられなかった。 「澪さんは……俺に触れてほしいんですか?」 澪の表情が止まった。 嫌そうな顔ではなかった。 ただ、自分でも考えたことのない問いを突然渡されたように、困った顔で悠を見つめていた。 「意味は分かっています。」 そう言ってからも、澪はすぐには続けられなかった。 悠へ伸ばしかけた手を引くこともせず、そのまま指先だけを止めている。 「分かっていますけど……ちょっと待ってください。」 悠は何も言わずに頷いた。 一ヶ月前、

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